作品をつくっていると、景色だけではなく、音の記憶から布が生まれることがあります。
《蒼影》も、そんなふうに生まれた一枚です。
初夏になると、山ではヒグラシが鳴き始めます。
夜が明けるほんの手前、まだ空が青とも黒ともつかない時間に、最初の声が聞こえてきます。
そして少しずつ明るくなり始めると、すっと鳴きやみます。
数年前までは、ヒグラシは八月の夕方に鳴くのがいつものことでした。
どこか秋の気配を感じさせる音で、夏の終わりに近づいたことを知らせるような声だったと思います。
けれど、いつの間にかずいぶん早く鳴くようになりました。
いまでは、あの声を聞くと、秋というより「夏が来るな」と感じます。
季節の巡り方が、少しずつ変わってきているのかもしれません。

《蒼影》を織っているとき、私の中にあったのは、そんな夜明け前の時間でした。
まだ夜の黒さが残っているのに、その奥に青がひらき始めている。
はっきり明るいわけではないけれど、もう闇だけでもない。
その境目のような空気を、布の中に残したいと思っていました。
ヒグラシの声も、まさにそんな時間にあります。
朝が来る直前の、ほんのわずかな気配の中で鳴き始め、光が満ちてくると止んでしまう。
見える景色というより、自然の時間そのものの輪郭を、声が教えてくれているように思います。
この作品では、特別な素材を加えるのではなく、絹正糸、絹強撚糸、太さの異なる絹真綿糸そのものの重なりから、青と黒の関係を織り上げました。
張りのある糸とやわらかな糸が交わることで、軽さがありながらも、奥に静かな密度が残る布になっています。

黒の線が布の中をゆるやかに走り、そのあいだに青がひらいていく。
強く主張する青ではなく、まだ暗さを抱えたままの青。
夜明け前の空のように、見る角度や光によって、前に出たり沈んだりしながら、表情が少しずつ変わっていきます。

からみ織りは、糸のあいだに空気を含む織りです。
そのため、光を受けると透けが生まれ、巻いたときには奥行きが立ち上がります。
《蒼影》もまた、ただ青い布というより、静けさの中にかすかな動きを残す布になったように思います。
山で暮らしていると、季節は色だけでなく、音でもやってきます。
それぞれの季節の風の音。動物や虫たちの鳴き声。
ヒグラシの声が、秋の気配ではなく、夏のはじまりを告げるものになったことに、少し驚きながら、けれどその変化もまた、今の景色の一部として受け取っています。
《蒼影》には、そんな朝の境目の時間と、山で聞く音の記憶が残っています。
夜と朝のあわいにある青。
その静かな気配を、そのまま布にしてみたかったのだと思います。
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